百年前のスペイン風邪を振り返る!
~『感染症の日本史』磯田道史著を読んで~
令和2年10月の定例勉強会(令和2年10月21日開催)
新型コロナウイルス感染症は欧米を中心にさらに流行の勢いを増し、WHOの報告によると10月時点で全世界の感染者は4000万人を超え、死亡者は110万人を上回ったとされています。いまだ確実な治療薬や有効なワクチンのない現状を考えると、過去のパンデミックの歴史を学ぶことは、新型コロナの今後を占う意味でも大切ではないかと考えます。
そこで、磯田道史著『感染症の日本史』(文藝春秋)から、百年前のスペイン風邪が日本でどのように流行したのか振り返ってみましょう。
百年前に流行したスペイン風邪とは
スペイン風邪(H1N1新型インフルエンザウイルス)は、1918年から1920年にかけて流行し、世界の人口(当時18億人)の半数から3分の1が感染し、全世界で5000万人以上の人が死亡したとされています。
スペイン風邪の流行は第1次世界大戦の後半と重なっており、この大戦による戦死者が1000万人だったことを考えると、実にその5倍の人々がスペイン風邪で命を落としたことになります。スペイン風邪は、患者1人が2~3人にうつす感染力があったとされ、パンデミックとなって世界で多数の死者を出したことなど、今回の新型コロナウイルス感染症とよく似ています。
当時の新聞記事などから、感染終息までにはおよそ2年かかり、3つの流行の波があったようです。1つの波の期間は長くても6か月で猛烈な感染のピークは2~4か月でした。
① 第1波(春の先触れ):1918年5月~7月
② 第2波(前流行):1918年10月~翌年5月頃まで
③ 第3波(後流行):1919年12月~翌年5月頃まで
第1波は最初の流行のため広く多くの人が感染しましたが、死者はほとんどでませんでした。
同年10月からの第2波では、ウイルスが変異したことで致死率が高まり26万6千人もの死者がでました。とくに11月からは猛威を振るい翌年の1月には死者が集中しています。
第3波は、12月1日が旧日本陸軍への新兵の入営日であり、第2波を免れた新兵の入隊兵舎での集団感染が全国各地でおこりました。それが全国流行の発火点となりました。そして翌年1月以降本格的な殺戮がやってきました。第3波は、第2波より感染者数は少なかったものの多くの死者がでて致死率はさらに高まりました。政府はこの時期になって社会的隔離を呼びかけ、1920年3月にようやく流感は伝染病であると断定しました。第3波の流行に至るまで、政府によるイベントや営業の自粛、行動制限などの流行拡大のための予防対策はとられなかったのです。
このように新型ウイルスが2波、3波と繰り返すのは、ウイルスが変異したり他の地域から繰り返し感染が持ち込まれることにより、人口の大部分が免疫(集団免疫)を得るまで流行するためです。
ウイルスの変異によって致死率が高まっていったスペイン風邪
スペイン風邪では、ウイルスの変異によって第1波より第2波のほうが致死率が高まりました。
第1波では死者がほとんどでていないのに、第2波では26万6千人の死者がでました。第3波ではさらに致死率が高まり、感染者数は第2波より少なったものの18万7千人の死者(致死率5%)がでました。
最終的なスペイン風邪による日本での死者数は、日本本土で45万人(人口の0.8%)、外地(朝鮮、台湾)を含めると74万人の死者がでました。諸外国との比較では、日本の死亡率は欧米とほぼ同じで総人口の1%以下であったのに対し、そのほかの国は軒並み1%を超え、インドは6%にのぼっています。
日本国内でのスペイン風邪の流行
国内で流行が目立ったいくつかの地域の流行状況についても記載されています。
神戸は貿易港のためヒトの移動・密集・接触の場が多く、流行の拠点になりました。市電の運転手がスペイン風邪にかかり欠勤し運行本数を減らしたという記事が残っています。
京都は当時から修学旅行と観光のメッカで人の流入が多いことから、第2波では東京を抜いて死亡率が最も高くなりました。
青森県は人口が多いわけではありませんが、北海道への出稼ぎ者が多く、全国からウイルスをもって集まった出稼ぎ労働者から感染し、その感染者が青森県に帰って流行を広めました。青森は北海道と内地を結ぶ(青函連絡船の発着地)地点となっていたため、インフルエンザ患者が行き来してウイルスを振りまいた可能性も高いのではないかと推察しています。
政治の要職にある総理大臣原敬、山形有朋、大正天皇、皇太子(のちの昭和天皇)もスペイン風邪にかかりました。政府の要人の感染は連日の会議や宴席が、皇族の感染は展覧会等のイベントでの多くの人との接触がその原因ではないかと述べられています。
当時の新聞記事をみるかぎり、政府もメディアも早期から特別な伝染病であるとは警告していません。これが感染の被害につながりました。集会やイベントの制限もほとんどなされていません。与謝晶子の新聞投稿で、学校、興行所、工場など人が密集する場所の一時休業をなぜ要請しなかったのかと政府の無策を非難しています。いち早く行動制限と集会規制を行った都市は後手に回って都市に比べて死亡率に大きな差があったことも報告されています。
百年前のスペイン風邪流行から、いま私たちが学ぶこと
このようなスペイン風邪の流行から、我々は新型コロナ感染症について何を学ぶことができるでしょうか。
第1には、人の移動や密集がいかに流行を拡大させるかということを思い知らされたことです。
専門家が繰り返し啓蒙している“三密を避ける”ことの重要性を改めで認識させられました。
第2には、流行は一つの波では終わらないということです。
集団免疫を獲得するまで繰り返し流行が起こります。そして感染をくりかえすことにより、ウイルスが変異して致死率が高まる可能性があるということです。
100年前と違い、今では新型コロナウイルスの遺伝子配列がわかりPCR検査で診断ができるようになりました。医療は飛躍的に進歩しており、第1波の治療経験を生かすことで現在では救命率が上がり死亡者も少なくなってきています。しかし、有効な治療薬やワクチンが開発されていない点においては当時と変わりません。
このような状況下でスペイン風邪の教訓を生かすとすれば、国民一人一人が三密を避け、手洗い消毒を心がけることで、できるだけ流行のピークを緩やかにすることが最も重要だと思います。流行を緩やかにすることで医療崩壊を防ぎ、経済をなんとか回していく、その間に有効なワクチンが開発されることを期待する、そんなシナリオを描きながら新しい生活様式のなかで今を楽しんでいけたらと思います。
令和2年10月21日
あおい小児科 院長